2021年2月21日
 ローマ人への手紙 3章10〜12節
題目 「人間の罪と悲惨さ」
桑 照雄 牧師

説教(奨励)

 私たち人間すべては、アダ ムが最初に犯した罪を持っている。その結果、人間は神のかたちに造られた初めに持っていた義を失い、全性質が腐敗している。神の前に受け入れられる完全な 善=良い行いに無能力であり、自分の救いについても無能力である。日々、現実に犯す罪は、私たちの心が罪によって腐敗しているからである。
 罪の結果、人間は罪の悲惨さを背負わなければならなくなった。堕落前は、完全に自由な神との交わりを持ち、限りない喜びに満たされていたが、罪によって この幸せな神との交わりを失い、悲惨な状態へと落ち、神の怒りと呪いの下にある。義なる神は犯した罪に対して正しい怒りと呪いを下される。
 その結果、私たち人間はこの世で様々な悲惨を免れない。この世での悲惨の極みが死である。死は自然の結果ではなく、罪の刑罰、報いである。肉体の死は、 死のほんの一部にすぎない。真の死、霊的な死、それは地獄の刑罰、永遠に回復されることなく、神に呪われ捨てられる苦しみこそ、「罪の報酬としての死」の 本質である。神は正しいお方であり、神は罪に対して怒るお方である。その怒りは正しい。必ず罪を裁き、罰する。アダム以来の人間は、肉体は生きていても、 そのたましいは、ずっと死んだままだった。神を信じない者の魂はずっと死んだままで、死からいのちに移ったことが無い。その者の上にとどまっていた神の怒 りは、死によってすべてのしかかる。神様に対する人間の罪は非常に深刻なので、神様はこの世では裁きを猶予しておられるが、人間が死んだ後で刑罰の場所を 準備しておられる。それが地獄である。
 人間の悲惨さはあまりにも大きい。人は神を喜ぶために造られたが、神から離れ、苦しみと悲しみの人生を送る。そして罪の報酬として人は死ぬ。死後には永 遠の刑罰の場所に行く。罪とはなんと大きな破壊、破滅をもたらすのか。私たちのこの悲惨さから私たちを救って下さる救い主が、何としても必要である。
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