2021年2月7日
 ヨハネの手紙 第一 3章4節
題目 「罪とは何か」
桑 照雄 牧師

説教(奨励)

 罪とは、神の律法に従わな いこと(行わないことによる罪)、あるいは背くこと(行うことによる罪)である。律法とは、言い換えれば神のご性質の表現である。神様が何を望まれ、何を 嫌われるか。律法に表現されている。それはまた、神が人間に対して要求しておられる事である。私たちが律法を破ったり、背いたりするとき、私たちは神のみ 前に罪を犯して罪人となる。一つでも従わない時、神様の律法を全て破った者とされるのであり、一つでも破るなら、不従順であることに変わりない。アダムに とって、取って食べはならないという神の明白なご命令に対する不従順、不服従が、罪の中心だった。何が正しく何が誤りか、善悪を定める権威は神様だけであ る。神はこの世の創造者、保持者だから何が善で何が悪か、それは神様だけが決められることである。だからアダムが善悪を知る唯一の道は、神のことばにとど まることだった。だからこそ、サタンはこのことに集中して誘惑した。「神のことばを唯一絶対の基準としなくて大丈夫だ。神無しで神抜きで善悪は自分で知れ る、自分で善悪は何かを決めればいい。自分がルールになればいい、自分が神のようになればいい。」
 私たちが罪を犯すとき、アダムと同じことを繰り返している。神の律法を無視し、自分の良いと思うこと、都合の良いことを行ってしまう。アダムは神の聖な る命令に背いた。アダムは神の命令を行う完全な自由と能力を持っていながら罪を犯した。不従順の恐るべき結果についてもあらかじめはっきり警告されてい た。アダムの罪がどれほど大きな罪であったかがわかる。罪の結果、命の源なる神から離れ、死が定められた。肉体の死はすぐには訪れなかったが、やがて死に よって地上の生涯を終えることとなった。この罪の結果による死は、アダムが代表する全人類にまで及ぶこととなった。
 神の律法の中心、要約は主を愛し隣人を愛することである。もし私たちが、神と隣人を完全に愛することが出来るなら、決して罪を犯すことはない。もし私た ちがいつも神と隣人を自分より大切にしていることが出来るなら、間違うことはない。その時神様の律法を破ることはない。神と人への愛を完全に全うした人は ただ一人、第2のアダムであるイエス様だけである。
 「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。」ロマ3:23〜24
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