私たちは、認知症にならな
い保証はない。人生100年時代、やがて通る道である。しかし、考え方を変えれば忘れることは良いことである。本当に赦すとは、その犯した罪を忘れること
である。「もうあなたの罪を思い出さない。」(イザヤ
43:25)これこそ神の赦しである。神様は私たちの罪に関しては、完全な認知症になってくださる。神の赦しとは、私たちの罪を完全に忘れ去ってくださる
ことである。
私たちもやがて「イエス様ってだれ?」そうなる時が来るかもしれない。人間としての人格が崩れていった時、知性や理性が失われて行った時、関係までも失
われるのか?そうではない。お互いの関係は、一方が覚えている限り成立する。「女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。自分の胎の子をあわれまないだろう
か。たとえ女たちが忘れても、このわたしは、あなたを忘れない。」(イザヤ49:15)罪に対して、神様は完全な認知症、健忘症になって全部忘れ去ってく
ださる。しかし、私たちのことを神様は決して忘れず覚えていてくださる。そしてたとえ私が認知症になっても、知性、理性、人間性も失われて、人格さえおぼ
ろげになったとしても、神様との関係は決して失われることはない。永遠に失われることはない。なぜなら、神様との関係は、神様の側で私を忘れず覚えていて
くださる限り成立するから。
そのために、イエス様ご自身がポンテオピラトのもとで、裁きの法廷に立たれた。罪なきお方が、私たちの代わりにそこですべての裁きを受けてくださった。
「この者の過去はすべて、私が代わりにポンテオピラトのもとで苦しみを受けた。この者の裁きを私が十字架で身代わりに受けた。だからこの者はこの法廷に立
つ必要のない者だ。罪なき者、無罪の者として、神の国、天国に入りなさい。」
神様は罪を完全に忘れてくださるが、私たちのことは絶対忘れない。私たちが認知症になっても、神様の事すら分からなくなっても、神様は私たちのことを決
して忘れない。だから、その関係性は絶対失われない。イエス様が十字架で死んでまでして結んでくださった、紡いでくださった、この神様との強い強い絆は、
天地が滅びても決して変わらず、決して失われることはない。今後、私たちが年老いて、もはや体が疲れこわばって歩けなくなっても、理性が完全に失われて、
自分の事も、そして神様の事さえも、何もかもわからなくなってしまっても、神様は変わらずに私たちを愛し、背負い、運び、救い出して天国まで連れて行って
くださる。