2020年10月18日
 ルカの福音書 18章15〜17節
題目 「無力さに生きる」
桑 照雄 牧師

説教(奨励)

 幼子とは、素直さ、無力さ をもって父を呼ぶ存在である。神様を父よ、お父さん、と呼べるのは素晴らしい特権である。「そして、あなたがたが子であるので、神は『アバ、父よ』と叫ぶ 御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。」(ガラ4:6)ルカ15章で、放蕩息子は父を裏切り父を捨ててめちゃくちゃな生活を送った。しかし帰ってき た息子に、父は子どもとしての権利を回復し、最高のもてなし、御馳走をした。それは放蕩息子が父の子どもだからである。
私たちが神の子とされた、それは神のみ手にあるすべての良きものが私たちの相続財産だ、ということである。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、 その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。」(ヨハ1:12)神の子どもとなる特権、それは「アバ、父よ」そう呼ぶことが許される 特権である。
 パウロは重い持病を抱えていた。しかし神様から「私の恵みはあなたに十分だよ、私の恵みはあなたの弱さを通して現れるからね。」と言われ、あなたの恵み が弱さを通して現れるなら、このままで結構です。これからはこの弱さを誇りとします。そう告白した。(第二コリ12:9〜10)無力のまま、背伸びせずそ のまま、ありのままでキリストにつながる。過去に執着せずに、過去をスパッと切り取られてキリストに接ぎ木される時に、初めてキリストの命があふれ流れて くる。
 最後に、神を父と呼べる祝福を私たちに与えるために、イエス様が苦しまれたことを覚えたい。イエス様は、十字架にかけられる前夜、ゲッセマネの園で「わ が父よ」と祈られた。しかし、十字架の上では「わが神」としか祈れなかった。子なる神が父なる神に捨てられ、親子の関係が断絶した。だから「アバ、父よ」 と祈ることが許されなかった。この十字架の苦しみを通して、私たちは「アバ父よ、天のお父様、父なる神」そう祈れる。無力のまま、そのままで「アバ父」そ う祈ろう。
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