私たちは、キリストを信じ
た時、キリストに接ぎ木された。キリストと繋がっている。切っても切れない、そこから命をもらっている。農夫や庭師の務めは、少しでも良い実が結ばれるた
めに、手入れを欠かさず、必ず剪定、刈りこみをする(15:2)。今、私たちは刈りこみをされているのかもしれない。「すべての訓練は、そのときは喜ばし
いものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。」(ヘブル
12:11)
「あなたが私を選んだのではない。私があなたを選んだ!」と主は言って下さる(15:16)。
枝は、幹に繋がっている時に、必ず実を結ぶ。それは枝の頑張りではない。私たちがキリストにつながるなら、神は素晴らしいことを行われる。イエス様から
の命が流れ出して、私たちの人生に豊かな実りを与えて下さる。あなたがキリストに今も、そしてこれからも繋がっているかが問題である。
「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」15:4〜5
「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい。」ヨハ15:9
コロナのへ恐れ、思い煩い、心ふさぎ鬱々とする中でも、キリストにつながることによって、キリストの愛につながることによって、キリストの愛、平安、喜
びに満たされ、キリストの命が流れてくる。私の内には命もエネルギーもなくても、キリストの命に満たされる。キリストの愛に満たされる。イエス様の愛に留
まることによって、イエス様が愛を持って、いつもこの私と共にいてくださる。