私たちの人生には、辛い出
来事、悲しい出来事がある。時間がたてば忘れられると思っても、年を重ねるごとに辛い思いをする方もいる。そこにあるのは不条理、また不合理である。パウ
ロとシラスはピリピの町で、無実の罪でむち打ちの刑を受けた。イエス様もポンテオピラトのもとで「苦しみを受け」、全く罪なきお方が無実の罪を着せられ、
苦しまれた。十字架にかけられて、私たちの身代わりとなってくださって苦しんで死なれた。その苦しみと死によって、私たちは死と裁きと滅びから贖われた。
神ご自身がその血を持って私たち教会を贖い取られた。そのことを忘れてはならない。
不条理への対処法は、祈ることである。パウロとシラスは、ムチで撃たれた痛みが極みだったにもかかわらず、祈りと賛美をささげ、その結果、神によって奇
跡が生み出された。人生、どのような時にも、不条理に出会い、もがき苦しむ時がある。そんな時、聖書は「苦しんでいる人がいれば、その人は祈りなさい。」
(ヤコブ5:13)と言っている。神を信じる者にとって、希望は失望しに終わることはない。たとえ失望しても、絶望することはない。それは聖霊によって、
神の愛が私たちに注がれているからである(ロマ
5:5)。また「聖書はこう言っています。『この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。』」(ロマ 10:11)
またパウロ達は、獄中で神を賛美した。苦しみと不条理の只中で、なお神を賛美した。その結果、看守は主イエスの救いを知り、真夜中に家族と共にイエス様
を信じて洗礼を受ける。家族と共に、素晴らしい奇跡が続いて起こった。この看守と家族は、ピリピ教会の重要な教会員になった。パウロ達の理不尽な苦しみ
は、実にこのためだった。困難を通して、祈りと賛美を通して神の奇跡、素晴らしいことが起こる。生きることは難しい、生きることは苦しい、しかしその先
に、必ず素晴らしいことが待っている。神が必ず素晴らしい奇跡、祝福を用意している。そのことを信じ、失望しないで待ち望めるか、が問題である。神様を信
頼し、忍耐し、どんなに苦しくても、辛くても、祈りと賛美を持って進むなら、必ず神様は祝福してくださる。どんなに苦しくても、辛くても、神様を信頼し、
忍耐し、主を礼拝し、祈りと賛美を主にささげよう。「主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。」(第二歴代20:21)