パウロは、イエスキリストに出会ってから、人生が180度変わって、それまで敵視していたキリストの愛に答えようと思った。パウロが考えたキリストの愛に
対する応答は、キリストが命を懸けて愛された人類に対してキリストの愛を伝えること。パウロは、それを莫大な借金だ。と表現した。パウロは、福音のため特
別に選び出され、呼び出された(1:1)。人間には、それぞれ使命というものがある。使命とは命を使うと書く。私たちは何のために命を使っているのか。今
コロナでそれどころではない、自分や周りを見れば確かにその通り。しかし、本当はこのような時だからこそ、福音が必要である。このような苦しい時、教会は
自分のことで精いっぱい、にならず、このような時だからこそ、先を見据え、イエス様の宣教命令を忘れてはならない。
「義人は信仰によって生きる」(1:17)とパウロは言ったが、「信仰」は「真実」とも訳せる。これは私の真実ではなく神の真実である。私の頼りにならな
い信仰が土台なのではなく、神の御真実を土台にして生きるのだ、ということである。神様ご自身の真実、神様ご自身の恵み、その変わらない憐み、これに私た
ちはただすがって生きることが「義人は信仰によって生きる。」であり「義人とは神の真実にたよって生きる者」ということである。これこそ福音の核心であ
る。
「彼らは涙の谷を過ぎるときもそこを泉の湧く所とします。」(詩84:6)私たちの人生には、涙の谷を通るような時がある。しかし、その涙の谷そのものが
泉の湧く素晴らしい場所へと変えられる。直前に「
なんと幸いなことでしょう。その力があなたにあり心の中にシオンへの大路のある人は。」(84:5)とある。自分の力ではなく神を力とするもの、その心は
常にシオン、つまりエルサレムであり、神の宮であり、神様ご自身に向いている者、神を力とし、その心は常に神様に向ける者は何と幸いか。行き詰って困難を
覚える人、屈辱の中にある人もおられるかもしれない。しかしそのような涙の谷を通るその時が、キリストの十字架の泉湧く恵みを知る時となる。まさに神の御
真実に触れる時となる。
それこそ、福音を恥としないことであり、キリストが私を愛して私のために十字架にその身を捨てたという事実に根差す、魂に対しての莫大な借金を返済するこ
とになる。私たち泉教会も、アロン&真裕子ジェント夫妻を泉教会から送り出し、二人のために祈り支えることによって、宣教の働きに参加できることを覚えた
い。