1.誰に語られたか。
・すべてを捨ててイエス様に従った12弟子たち。
・仕事、家庭を持ちながら、イエス様を心から信じ、奉仕をする弟子たち。
・イエス様から何かを学び取ろうとしている、いわば求道者たち。
フルタイムの奉仕者と信者と求道者と、これら全部を弟子たちと呼ぶことが出来る。今日、これらの人々の集まるところは教会で、山上の説教は、教会に対して、教会に集う人々に向けられて語られている。
2.誰のために語らたのか
弟子たちに対して語られたが、この説教はすべての人のために語られた。病に苦しみ、貧しさにあえぎ、人生のいろいろな問題に悩み苦しむ群衆、イエス様はそのような多くのの苦悩を抱えた群衆を見られ、愛された。
今日も、教会でイエス様の教えが説教を通して語られるが、それはその教え、その祝福が、クリスチャンを通して教会からこの世に出ていって、この世に祝福を運ぶものとなる、そのことが意味されている。
3.これは宣言である。
イエス様の説教は宣言である。人間には到底理解できない、納得できない「神のことばの宣言」、それが説教である。聖書を読むと、神のことばの力が書かれ
ている。創造の初めに、何もない所、そこに神は「光、あれ。」という言葉を発せられた。すると光があった。神のことばが光を作り出した。これが神のことば
の力である。年老いたアブラハムとサラにイサクが誕生したのも、神のことばの宣言の力である。
今日も、神のことばはむなしく帰ってくることなどない。必ず実現する。必ず新しい何かを生み出す。神のことば、聖書のことばは私たち人間の思い理解をは
るかに超えるものである。神のことばは必ず実現する。神のことばだから必ず実現する。神のことばはおすすめでも説得でもなく、宣言である。私たちがみ言葉
を神のことばとして受け止める時に、たとえ私たちの内に良いものが何も無くても、私たちの内に生きて働き、必ず力強く祝福を作り出す。