私たちが人生の嵐に遭遇する時に、それに耐えられるか、乗り越えられるかどうか。それは私たち人間の造りで決まるのではない。その人が何を土台に置いているか、何の上に自分の人生を建てているか、にかかわっている。嵐とは、
1.病気、けが、職場や学校でうまくいかないといった逆境がある。
2.また、人に裏切られたり、ひどい仕打ちを受けたりする人間関係の嵐もある。
3.人からの非難も嵐になる。
4.失敗という嵐もある。
5.一番大きな嵐は、死ぬこと。死。
これらの嵐が襲ってきた時に、恐れに支配され、倒れるような経験をする。しかし、イエス様は言われた。「雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした。岩の上に土台が据えられていたからです。」(7:25)
よく読むと、倒れないのは家であって人ではない。人は倒れる。しかし倒れた時逃げ込める丈夫な家を建てなさい。と言っている。嵐が過ぎれば、再び起き上
がれる。人は皆だれしも倒れる。その下に、イエスキリストという土台、神様という土台があるか、神のみことばに自分の人生を下ろしているか。自分は弱くて
もイエス様が強いので、また立ち上がることが出来る。
「ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。」(マタ7:24)
「わたしのこれらのことば」とは山上の説教すべてのまとめであり「これを行う」ことなどとてもできない。イエス様が本当に言いたかったのは、天の父は、
変わらず愛してくださるということ。山上の説教の重要なテーマは「あなた方の天の父」である。守れない私たちを、子として父なる神は変わらず愛される。一
人のクリスチャンの人生も、神に従順な時ばかりでなく、神に背を向け逆らって歩むような時がある。そのどちらの時も神の愛は変わらない。むしろ放蕩息子を
愛した父のように、神は迷い出たクリスチャンをさらに愛される。神は神の子とされた者を決して見捨てないで、変わらず愛し続けておられる。この神を見続け
て生きること。これこそ人生の土台である。
「わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う」ことを本当に実現してくださるのは、聖霊を通して共にいて下さるイエス様であり、イエス様に心の王座を明け渡して、委ねることこそ「岩の上に自分の家を建てた賢い人」である。