2019年12月8日
 マルコの福音書 10章46〜52節
題目 「何をしてほしいのか」
桑 照雄 牧師

説教(奨励)

1.エリコでのイエス様
 エリコは、エルサレムに入る手前の町であり、イエス様の旅も終わりに近づいた。この時「過ぎ越しの祭り」が近づいていた。イエス様が十字架についたの が、この過ぎ越しの祭りの日であった。イエス様は「人類全体の過ぎ越しの子羊」として、殺されるためにエルサレムに向かわれた。

2.イエス様に呼ばれたバルテマイ
 その時、盲人の乞食バルテマイが、「ダビデの子のイエス様。私をあわれんでください」と叫んだ。「ダビデの子」とは、メシヤ、キリストを言い表し、ペテ ロの「あなたはキリストです」という告白にも匹敵する。「わたしに何をしてほしいのか?」とのイエス様の質問に、「先生、目が見えるようになることです」 と答えた。その中に「イエス様の本当にお姿を見たい、仰ぎたいのです」との願いが隠されていたろう。

3.イエス様について行ったバルテマイ
 バルテマイは目が開かれ、イエス様について行った。十字架への道を歩まれる主イエスに、このバルテマイは従っていった。金持ちの青年も「私についてきな さい」と言われたが、ついて行くことができなかった。弟子とは何か?弟子とは主イエスに従う者である。イエス様に従ったバルテマイは数日後、開けられた目 で、十字架につけられたメシヤの姿を見ただろう。「わが創造主、わが創造主、どうして私をお見捨てになったのですか」主イエスの悲痛な叫びを聞いたろう。 そしてよみがえったイエス様のことをどこかで聞いて、彼は肉体の目ばかりか、霊の目も開かれ、クリスチャンとしての歩みをまっとうしたのではないか。私た ちの目は開かれているだろうか?主イエスに従う者だろうか?
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