生まれつきひどい病気を持つ子どもがいた。助けたい一心で、父親は主イエスのもとに連れてきた。しかし主イエスは
不在で、残った弟子たちでは全く治らない。それを見ていた律法学者たちと弟子たちの無益な論争が始まった。それを取り囲んで、多くの群衆が面白がって聞い
ている。
そこに帰ってきたイエス様は、彼ら全員のなかに不信仰を見る。しかし主イエスは、信仰を見つけようとされた。むしろ信仰を生み出そうとされた。それがこ
の出来事の核心である。主イエスは、子どもの父親の中から、信仰を生み出し、引き出された。「しかし、おできになるなら、私たちをあわれんでお助けくださ
い。」「私たち」つまり父親は、子供と一緒になって悩み苦しんできた。一緒に生きてきた。出来るすべてのことをしてきて、深い絶望を味わってきた。
主イエスは、「できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」父親のわずかな信仰にチャレンジし、信仰へと招き入れた。自
分の内には不信仰しかない。その不信仰な私を助けてくださいと、自分自身を主イエスに預けるほか無くなる。不信仰のままで主に委ねる。信じるとはそういう
ことである。もはや不信仰でしかない自分により頼まず、自分の不信仰の現実もふくめてキリストにすべてを委ねる。自分にではなく、信じる確かさをキリスト
の中にだけ置く。「信じます。不信仰な私をお助け下さい。」これこそ歴史上、最も優れていると言われる信仰告白である。