1.人々が「連れて来た」
人々が彼を「連れて来て」、「イエスに願った」(22)。彼らの「信仰」を見て、彼らの「とりなし」を聞いて、主イエスは応答した。今も生きておられる主は、私たちの「信仰」、私たちの「とりなし」を期待している。
一方、この盲人はひたすら受け身で、彼の信仰はここでは問われていない。ここに「無条件的選び」を見ることができる(エペソ1:4、5)。
2.主が「手を取って」
主イエスはその盲人の「手を取って」「連れて行かれ」「両手を彼に当て」られた(23)。救い主であり創造主である主イエスご自身が、手を引き案内役と
なって共に歩まれた。病めるところに直接手を触れて、いやしへと、救いへと導かれた。ここに、深い感動を覚える。ここに「不可抗的恩恵」(ロマ9:11〜
16)「聖徒の堅忍」(ヨハネ6:35〜40)を見ることができる。
3.はっきり見える
主が声をかけられ、歩いて見せたのかもしれない。彼が生まれて初めて一番近くに見たものは、主イエスであった。「ああ、このお方が主イエスだ」、今主を
見ることができる。主イエスは生きておられ、私を愛しておられる。これが彼の原体験だった。私たちも信じ救われたとき、主イエスがはっきり見えていたはず
である。「主よ、おぼろげにかすむ私の目を、どうか澄んだものにしてください」「イエスから目を離さないでいなさい」(ヘブル12:2)