2018年3月4日
 マルコの福音書 8章1〜21節
題目 「四千人が満腹」
桑 照雄 牧師

説教(奨励)要旨

 主イエスの奇跡は、奇跡そのものを行うのが目的ではなかった。それは、常に人々へのやむにやまれぬあわれみ、深い 愛の表れであった。この群衆は、3日間も主イエスの説教を熱心に聞き続けた。その思いに答えて、主イエスは、何もない荒野でマナを与えるように、食料の尽 きた彼らを満たしたのである。魂も肉体も心配してくださる主のあわれみを覚えたい。

 しかし、議論好きで不信仰なパリサイ人は、かたくなな「神学的」論争を挑んだ。彼らは初めから信じるつもりなどなかった。サタンの誘惑とは、しるしを行 わせることだった。石をパンにするという奇跡を主は拒んだ。パリサイ人のそれには、サタン的誘いがあった。しるし信仰は、真の信仰の妨げになる。真の信仰 とは、主イエスの十字架の救いを信じる信仰であり、主イエスとの人格的関係、主イエスを愛し従う信仰である。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めていま す。」(マタイ12:39)。「奇跡信仰」「しるし信仰」は、より大きいしるしを追い続け、さらに大きな刺激を求め、熱狂に走ったり、論争をもたらす。し るしや奇跡は、真の信仰に導く保障にはならない。

 あなたの心配、思い煩いは何だろうか?主イエスがいっしょなら、たとえパン1つしかなくても、心配する必要はない。主が必ず必要を満たしてくださるのだ から、何を食べるか、何を飲むかと心配する必要はない。四千人の群衆が満たされたように、主を第一とする者には、すべての必要は備えられる(マタイ6: 31~33)。泉教会と共に主がいて下さり、私たちの生活に主が共にいて下さる。それならば安心して、主に従ってゆける。
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