主イエスの奇跡は、奇跡そのものを行うのが目的ではなかった。それは、常に人々へのやむにやまれぬあわれみ、深い
愛の表れであった。この群衆は、3日間も主イエスの説教を熱心に聞き続けた。その思いに答えて、主イエスは、何もない荒野でマナを与えるように、食料の尽
きた彼らを満たしたのである。魂も肉体も心配してくださる主のあわれみを覚えたい。
しかし、議論好きで不信仰なパリサイ人は、かたくなな「神学的」論争を挑んだ。彼らは初めから信じるつもりなどなかった。サタンの誘惑とは、しるしを行
わせることだった。石をパンにするという奇跡を主は拒んだ。パリサイ人のそれには、サタン的誘いがあった。しるし信仰は、真の信仰の妨げになる。真の信仰
とは、主イエスの十字架の救いを信じる信仰であり、主イエスとの人格的関係、主イエスを愛し従う信仰である。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めていま
す。」(マタイ12:39)。「奇跡信仰」「しるし信仰」は、より大きいしるしを追い続け、さらに大きな刺激を求め、熱狂に走ったり、論争をもたらす。し
るしや奇跡は、真の信仰に導く保障にはならない。
あなたの心配、思い煩いは何だろうか?主イエスがいっしょなら、たとえパン1つしかなくても、心配する必要はない。主が必ず必要を満たしてくださるのだ
から、何を食べるか、何を飲むかと心配する必要はない。四千人の群衆が満たされたように、主を第一とする者には、すべての必要は備えられる(マタイ6:
31~33)。泉教会と共に主がいて下さり、私たちの生活に主が共にいて下さる。それならば安心して、主に従ってゆける。