主イエスは、弟子たちを「強いて」無理矢理主が舟に乗せ、送り出した。ペテロは、よみがえった主イエスにお会いし
た時、「あなたは今まで自分の思うように生きてきたが、これからは強いられて生きるようになる。」と言われた。ペテロは強いられて、ついに殉教する定めが
そこに記されている。ペテロと並んで大きな働きをしたパウロは、1コリ9:16で「福音をのべ伝えることは、私がどうしてもしなければならない定めだ。」
と言っているが、それは「強いて」ということばと同じギリシャ語が使われている。「強いられて」私たち今ここにいる。しかし、訳の分からない運命ではな
い。主イエスが強いて、ここに生きよと言われる。だから、忍耐して生きる。向こう岸には、深い主のめぐみが備えられている。
物事がうまくいかない時、苦しいこと、辛いことがあると、それは主の御心ではないのではないか?と思うときがある。しかし弟子たちも向かい風の嵐の中を
通らなければ、向こう岸にたどり着けなかった。そこには、主イエスと歩むすばらしい世界がひろがっている。私たちの歩み、人生、船旅にもたとえられる。岸
にとどまって眺めているだけで、船出をしてみなければ、すばらしい世界があることがわからない。
「海の大波を踏まれる」(ヨブ9:8)
主イエスは、大波だろうがなんだろうが、踏みつけ、踏み従えて、私たちのところに来てくださる。主イエスは、「私は創造主、全能主である。だから恐れなく
てよい。」そう言われる主が共にいてくださり、「さあ、私と共に行こう」(マルコ1:38)と言ってくださる。