1.ナザレの人々の不信仰
ナザレは小さな町で、皆イエス様を知っていた。「マリヤの子」とは、マリヤがヨセフと結婚する前に妊娠したという陰口だった。
2.ナザレに住まれた「一人子の神」
信仰とは「主イエスを神の子」と信じるということである。主イエスの中に信じ込むこであり、自分の存在すべてをかけて、主イエスの中にすべてを委ねきること。ヤイロも長血の女も結局そこまで行き着いている。
「一人子の神」が私たちのため、その罪から救うために人となられ、ナザレに住まれ、大工になって下さった。それどころか、人の罪を他の誰よりも深く悲し
み、これを自分の痛みとされ、ついにはそのために自分自身をいけにえとしてささげられた。罪無きお方が、罪人としての死を死に抜かれた。十字架の下でそれ
を見たローマの百人隊長は「この方はまことに神の子であった」と見事な信仰告白をしている。
3.つまずきの石が救いの岩に
ナザレの人々に信仰がなかった。信仰がないとイエス様は救えない。主イエスの身内の者もつまづいた(マルコ3:31〜)。イスラエルの宗教政治指導者
も、故郷ナザレの人々も、バプテスマのヨハネも獄中でつまずきそうになり(マタイ11:2〜)、十二弟子もつまずいた。私たちもつまずいてしまう。しかし
「家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石になった」(マルコ12:10)。つまずきの石にしっかりとしがみつくなら、それは礎の石、救いの岩(1コ
リ10:4)となって、私たちを救ってくださる。