2017年8月20日
 ルツ記 4章
題目 「人生の回復」
高桑 照雄 牧師

説教(奨励)要旨

 「サルモンに、ラハブによってボアズが生まれ、ボアズに、ルツによってオベデが生まれ、オベデにエッサイが生ま れ、エッサイにダビデ王が生まれた。」(マタイ1:5〜6) この系図は決して単調なものではない。私たちにそれぞれの生きてきた歴史があるように、ここ に記されている人たちにもそれぞれの歴史があった。ボアズとルツの場合もそうである。誠実なボアズはナオミの意図を知り、あがない手となった。ナオミに一 番近い親戚の者は「私には自分のために、その土地を買い戻すことはできません。私自身の相続地をそこなうことになるといけませんから。」と言って辞退し た。このことはボアズにおいても言い得ることであった。進んでナオミ一家のために身を挺したのであった。

 愛という言葉は美しい。しかし愛ということほど厳しいものはない。なぜなら、愛が真実であればあるほど自己犠牲をともなうからである。主イエスが「人が その友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(ヨハネ15:13)と教えられたとおりである。

 死んだ者のようなあわれな姿でモアブから帰ってきて、わが名をナオミ(楽しみ)と呼ぶな、マラ(苦しみ)と呼べと願ったナオミ。日ごとに他人の畑に行 き、落穂を拾い集めてその日の糧としなければならなかったルツ、こんな最底辺のみじめな人たちがやがて救い主イエス・キリストの先祖の一人に数えられ、そ の名を永遠に残す結果となったとは、まさに驚くべき事である。バブテスマのヨハネは、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起こすことができる、 と言っているが、まさに道ばたにころがる石ころのような彼女たちが、栄光のにない手とされたのは神による。そして、その神のみこころはボアズの愛を通して 実を結んだ。

 だから私たちの今がどのようであろうとも、私たちはそこで神を待ち望もう。神のみ言葉に聞き従おう。神は決して無意味に今を与えておられるのではない。 この今こそやがて受ける栄光のためのものである。神はナオミを、ボアズを、そして異邦人のルツをさえ用いてご自身の計画を成就されたように、私たちをもそ のご自身のご計画の中に数えておられる。
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