2017年7月23日
 ルツ記 3章
題目 「聖徒にふさわしく歩む」
高桑 照雄 牧師

説教(奨励)要旨

 ルツにとって、ボアズの畑で落ち穂を拾うことは、苦労であったともに、楽しいものでもあっただろう。親切なボアズ の行為は彼女の心に慰めと喜びを与えてくれた。しかし、収穫の時期は終わり、彼女は落ち穂を拾うことはできない。当時の社会において、保護の無いやもめの 運命は厳しいものでしかなかった。ナオミはルツに、ボアズのもとに行くよう命じる。ナオミの指示したことは、当時の習慣によるなら、相手の保護を求める意 思表示であった。その時、ルツは従順を決意する。ここから神の御業が前進する。ルツの従順は、マリヤの従順に通じる。神の業は、従順を通して実現する。

 ルツは、ボアズへの深い愛と謙遜と信頼を持って、彼に慈しみを求める。その姿は、神に対する信仰者の姿の手本とも言える。一方ボアズは、ルツがナオミを 見捨てることなく、苦労して落ち穂を拾い、彼女を養ったこと、若い男たちの後を追わなかったことに、ルツの誠実さを見る。保護を求めてきたルツに対して、 成熟した人格のボアズは、感情や欲望に流されることなく、神と人々の前で、誰が見ても正当な手続きを踏もうとした。現代は純潔が大きく堕落した時代であ る。しかし神の祝福は、きよさを守るところに与えられる。クリスチャンは、時代に流されずにきよさを守ってゆくべきである。

 ボアズのもとから帰ってきたルツに、ナオミはなすべきことをした後は、静かに待つことを命じる。何もせずに何かが成るのを待つことも、何かをした後にそ の結果まで無理強いすることも、どちらも神を信頼することではない。クリスチャンは、神の時を待つ訓練が必要である。神を信じる信仰によって待つなら、そ の答えを期待して、楽しみながら待つことができる。神の約束は必ず実現する。その約束を楽しむためには、信仰を持って待つことを学ばなければならない。
このウィンドウを 閉じる