2017年5月14日
 マルコの福音書 3章30〜35節
題目 「主イエスの造られる家族」
高桑 照雄 牧師

説教(奨励)要旨

1.主イエスの家族とは、主のみこころを行う者の集まりである
 主イエスは身内の人たちから呼び出されたとき、まわりに座っている人々をぐるりと見回して「ここに私の家族がいる。神のみこころを行う者が私の家族なのだ」と言われた。

2.主のみこころを行うとは、「イエスを囲んですわる」ことである
 当時の人々は、教師のまわりに「すわって」教えを聞いた。マルタの妹マリヤは、主イエスの足もとに「すわって」、その教えを聞くことに集中した(ルカ10:38-42)。
 つまり、主のみこころを行うとは、マルタのように自分であれこれ心配して行動することではなく、マリアのように主の弟子として、主のそばに「すわり」その教えに耳を傾けることである(32、34)。そこに主のみこころが聞こえてくる。
 その時「外に立って」いたのは、主イエスの肉親だった(31)。彼らはイエス様を本当に愛し、心から心配して探しに来ていた。しかし、彼らはイエス様を 主と呼ぶことが出来ずに、外に立ちつくしていた。中に入ってイエス様のまわりに弟子として「すわる」ことができなかった。

3.教会は主イエスの家族である
 主イエスを囲んで座っていた人々、主の家族と言われた人々は、主が十字架に付けられた時、結局皆イエス様を捨てて逃げてしまった。中には「十字架に付けろ」と叫んだ者もいただろう。十二弟子たちも皆主を見捨てて逃げ、ペテロは裏切り、ユダは主を売った。
 主の家族は、初めからそのような弱さを持っていた。しかし主イエスの愛は変わらなかった。自分を捨て、裏切る者のためにも、ご自分の家族として惜しみな い愛を注ぎ続けた。やがて彼らは、主の復活後に悔い改めた。そして主の愛に応えて、みこころを行う群と変えられていった。
 礼拝とは、見えないけれども今も生きてここにおられる主イエスを中心に、私たちが主の「まわりにすわって」主のみことばを聞くところである。
今この場で、みことばを聞いているこの群こそ、主イエスの兄弟、姉妹、また母である(35)。
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