1.主イエスの家族とは、主のみこころを行う者の集まりである
主イエスは身内の人たちから呼び出されたとき、まわりに座っている人々をぐるりと見回して「ここに私の家族がいる。神のみこころを行う者が私の家族なのだ」と言われた。
2.主のみこころを行うとは、「イエスを囲んですわる」ことである
当時の人々は、教師のまわりに「すわって」教えを聞いた。マルタの妹マリヤは、主イエスの足もとに「すわって」、その教えを聞くことに集中した(ルカ10:38-42)。
つまり、主のみこころを行うとは、マルタのように自分であれこれ心配して行動することではなく、マリアのように主の弟子として、主のそばに「すわり」その教えに耳を傾けることである(32、34)。そこに主のみこころが聞こえてくる。
その時「外に立って」いたのは、主イエスの肉親だった(31)。彼らはイエス様を本当に愛し、心から心配して探しに来ていた。しかし、彼らはイエス様を
主と呼ぶことが出来ずに、外に立ちつくしていた。中に入ってイエス様のまわりに弟子として「すわる」ことができなかった。
3.教会は主イエスの家族である
主イエスを囲んで座っていた人々、主の家族と言われた人々は、主が十字架に付けられた時、結局皆イエス様を捨てて逃げてしまった。中には「十字架に付けろ」と叫んだ者もいただろう。十二弟子たちも皆主を見捨てて逃げ、ペテロは裏切り、ユダは主を売った。
主の家族は、初めからそのような弱さを持っていた。しかし主イエスの愛は変わらなかった。自分を捨て、裏切る者のためにも、ご自分の家族として惜しみな
い愛を注ぎ続けた。やがて彼らは、主の復活後に悔い改めた。そして主の愛に応えて、みこころを行う群と変えられていった。
礼拝とは、見えないけれども今も生きてここにおられる主イエスを中心に、私たちが主の「まわりにすわって」主のみことばを聞くところである。
今この場で、みことばを聞いているこの群こそ、主イエスの兄弟、姉妹、また母である(35)。