1.救われたら終わりではなく、弟子としての歩みが始まる
イエス様を信じれば、信仰が完成し終わるのではありません。それは始まりであり、その時から救いの完成へと歩み始めるのです。イエス様は私たちに、「群
衆」ではなく、「弟子」となることを求められます。それは家族より自分の命より財産よりもイエス様を愛することであり、自分の十字架を負ってイエス様につ
いてゆくことです。苦難も涙もない人生など、どこを探してもこの世にありません。
2.霊的にしっかり備えなければならない
主の弟子として生きるためには、自分の弱点を冷静に計算し、霊の戦いにしっかり備えていなければなりません。
3.使命を忘れてはならない
サタンはいつも主の弟子を倒そうとします。サタンの策略は弟子としての使命を忘れさせることにあります。つまり「見た目だけのクリスチャン=群衆」とし
て生きさせようとします。弟子がみことばに従う使命を失ったら、もはや弟子ではありません。「塩けを亡くした塩」とは、自分のものを放棄することなくイエ
ス様に従おうとする人を指します。その人は、主のためには何の役にも立ちません。
私たちは、救いが終わりなのではなく、弟子として、みことばに従うことを通して、神の栄光を現さなくてはなりません。十字架の道を歩み続けられた主を見上げ、復活の主を見つめ、私たちも十字架を負って主の弟子としての道を歩み続けましょう。