1.押し寄せる群衆
ガリラヤ湖のほとりにゆかれた主イエスのもとに、大勢の群衆が押し寄せ、押しつぶされそうになる。彼らは病気を治して欲しくて、悩みを解決して欲しくて
必死の思い、決死の覚悟で、主にさわろうと、主にさわっていただこうと殺到した。主イエスは弟子たちに助けを求めつつ、なお群衆に向き合われた。伝道と
は、この主の声に、主の必要に応答すること。これが伝道の現場である。
2.押しつぶされる主イエス
群衆は、悩みや病をかかえながら、主イエスのもとにやって来た。この群衆の最も大きな問題は、汚れた霊の
虜になっていて、主のものとされていないこと、新しく生まれていないことにある。一所懸命、主イエスにさわろうとしたが、そのお方が神の子であることに気
づかない。気づいていたのは汚れた霊だけだった。この群衆が、やがてイエス様を押しつぶし、十字架につけて殺した。
3.押しつぶされながら証する教会
主イエスは、群衆に押しつぶされる道を選んだ。それは群衆を愛し、一人一人を大切なかけがえのない
いのち見てくださったから。そのため、主イエスも疲れていた。だから疲れて押しつぶされそうになっている教会は、じつは当たり前の姿である。押しつぶすよ
うな勢いで押し迫る人々の悩みに立ち向かい続けるのが教会の本来の姿である。
しかし、押しつぶされ十字架に死なれた主イエスは3日目によみがえられた。主のよみがえりを記念するため、私たちは週の初めに共に集まる。教会の証し
は、その主のよみがえりの力に生きたときだけ。押しつぶされそうになりながらも復活の主を証しする、これこそ教会の伝道の姿である。今日の私たちの教会
も、自分自身の悩みと、群衆の悩みの両方に押しつぶされそうになりながらも、復活の主の力を頂きながら、復活の主を証ししてゆく。