イエス様の弟子たちが、安息日に麦の穂を摘んだ。それを労働だとしてパリサイ人たちは非難した。それに対してイエス様は3つの反論をされた。
1.ダビデたちも安息日に供えのパンを食べた
サウル王に命を狙われ、亡命していたダビデたちは、空腹のために神に供えられたパンを食べた。しかしそれは安息日の出来事だった。
イエス様は、たとえ規定を犯したとしても、命を支えるためには、神にささげられたパンを提供することは悪いことなのか、と問われた。
2.安息日は人間のために設けられた
創造主が六日間で世界を創られ、そして私たち人間を創られたとき、同時に安息日を設けてくださった。
そしてこの安息日は創造主の安息に根ざしている。創造主は七日目に休まれた。創造の御業を終え、父と子と聖霊の創造主が深い交わりに憩われた時が安息日
である。週の初めに私たちもその交わりに入れられ憩うとき。恐れから開放され、罪から、不安から解き放たれる。帰るべきところに帰る時。三位一体の神の懐
に帰ってその交わりの中で安息するとき。安息日は人を縛り付けるためのものではなく、人が創造主の懐で安息するため、人のために在る。
3.イエス様は安息日の主
「人の子」とはメシヤ的用法で、救い主としてのイエス様を指す。イエス様は、ご自身を安息日の主と言われた。イエス様こそ安息日を定められたお方であり、人間を罪から解放し、真の安息をもたらす者であるとの宣言であった。
パリサイ人たちは真面目で、真剣であった。どうしたら安息日を守れるのか。しかし、そこに裁きが起こってきた。人を生かすはずの安息日のことで、正義の
名において人を殺すことが始まる。キリスト者もしばしばこの誤りに陥る。イエス様は「そういう心から解き放たれ、安息してほしい、神と兄弟姉妹との交わり
の中に心から憩うものとなってほしい」そう願われる。