2017年3月19日
 マルコの福音書 2章23〜3章6節
題目 「安息していますか」
高桑 照雄 牧師

説教(奨励)要旨

 イエス様の弟子たちが、安息日に麦の穂を摘んだ。それを労働だとしてパリサイ人たちは非難した。それに対してイエス様は3つの反論をされた。

1.ダビデたちも安息日に供えのパンを食べた
 サウル王に命を狙われ、亡命していたダビデたちは、空腹のために神に供えられたパンを食べた。しかしそれは安息日の出来事だった。
 イエス様は、たとえ規定を犯したとしても、命を支えるためには、神にささげられたパンを提供することは悪いことなのか、と問われた。

2.安息日は人間のために設けられた
 創造主が六日間で世界を創られ、そして私たち人間を創られたとき、同時に安息日を設けてくださった。
 そしてこの安息日は創造主の安息に根ざしている。創造主は七日目に休まれた。創造の御業を終え、父と子と聖霊の創造主が深い交わりに憩われた時が安息日 である。週の初めに私たちもその交わりに入れられ憩うとき。恐れから開放され、罪から、不安から解き放たれる。帰るべきところに帰る時。三位一体の神の懐 に帰ってその交わりの中で安息するとき。安息日は人を縛り付けるためのものではなく、人が創造主の懐で安息するため、人のために在る。

3.イエス様は安息日の主
 「人の子」とはメシヤ的用法で、救い主としてのイエス様を指す。イエス様は、ご自身を安息日の主と言われた。イエス様こそ安息日を定められたお方であり、人間を罪から解放し、真の安息をもたらす者であるとの宣言であった。
 パリサイ人たちは真面目で、真剣であった。どうしたら安息日を守れるのか。しかし、そこに裁きが起こってきた。人を生かすはずの安息日のことで、正義の 名において人を殺すことが始まる。キリスト者もしばしばこの誤りに陥る。イエス様は「そういう心から解き放たれ、安息してほしい、神と兄弟姉妹との交わり の中に心から憩うものとなってほしい」そう願われる。
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