2016年12月11日
 マルコの福音書 2章1〜12節
題目 「救いの中に飛び込もう」
高桑 照雄 牧師

説教(奨励)要旨

1.天井からの来客
 恐らくペテロの家だった。人々は熱心に主のみことばを聴きにやってきた。そんな中で、突然4人の男が天井に穴をあけ、担架ごと病人をつり下ろす。

2.彼らの信仰
 「イエスは彼らの信仰を見て」(5)。病人の救われたいという願いを自分たちの願いとして背負って来た友人たち。その熱心を主は信仰と認められた。たと え常識破りでも、イエス様の救いに飛び込む姿勢が、熱心さが無ければ、信仰と呼ばれるに値するものは無い。彼らはその病人ともども、イエス様に、イエス様 の救いに飛び込んだ。それが信じるということ。問題を全部抱えたそのままで、ただ信じて主イエスの言葉に飛び込んでゆく姿勢こそ、主の認められる信仰。当 時、誰かを弟子として受け入れるときに「子よ」と呼びかけた。イエスはその病人をご自分の家庭に家族として迎え入るように「子よ」と呼びかけられた。その 上で、「大事なのはあなたの病よりあなたの罪だ。その罪を赦そう。私があなたの罪を背負って、十字架にかかろう。罪の罰を、一切私が引き受ける。」

3.救いの中に飛び込もう
 聖餐は、洗礼を受けた者だけが受ける。それは、自分は罪を犯した者であること、今もこれからも罪を犯してしまう者であることを公に認めるということ。 「あなたの罪は赦された、これからも赦す。」その主の言葉を認め、「そうです、私は罪人です。ほかに生きる道が無いのです。主の十字架にすがるしか私には 生きようがありません。」それを皆の前で認めること。教会員も、それ以外の方も、この主イエスの救いに飛び込む以外、生きる道は無い。私たちが救いの中に 飛び込むよりも、主イエスのほうが、もっと激しく飛び込まれた。十字架にまで飛び込んでしまわれた。ご自分の体を引き裂き、血を流された。それだけのこと をしてまで、情熱を込めて私たちを救いへと招かれた。聖餐はこのことへの同意、確認、感謝、信仰の証であり、主の情熱に対しての私たちの応答である。
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