キリスト者は確かに教会に結びついたことによって選ばれた者たちではあるが、自らを「選ばれた者」と意識し、他の人を見下し始めたら、福音書に登場するパリサイ人・律法学者と何も違わなくなる。
主がツロ・フェニキヤという異邦人の地にイエスが踏み込んだのは、休息のためであろう。イエス自身、自分の使命がまだ異邦人に向けられるべきではないと
考えていたようである。そこに、異邦人の女が、悪霊につかれた娘の癒しを求めて主に憐れみを乞う。主は、そっけなく「今は異邦人の時ではないし、子犬に恵
みを与えることは出来ない」として願いを却下。しかし、女は、「子犬でもテーブルから落ちるパンくずを頂きます」と答える。主は、その女の信仰を大いなる
ものと驚かれ、直ちに、その娘に癒しを与えられた。
女の信仰とは何であったか。単なる執拗さだけではない。事実、執拗な祈りは自分中心の要求と紙一重でもあり得る。女の言葉に窺われる無私で冷静な態度
は、彼女の遜りと、それゆえに神の定めた順序にさえ拘らない自由な心を映し出している。信仰とは、確かにイエスへの信頼であるが、その信頼は、この女の心
の状態そのものでもある。福音書は、このような心がなければ、人がどんなに教えに熱心であっても空しいものであることをパリサイ人・律法学者との対比を通
して語っている。
物事には順序がある。しかし、例外もある。そして、その例外を恵みとして与えて欲しいとしたこの女性の心は、どこまでも恵みに食い下がる「信」であった。
思えば、私たちも、「例外的に赦された」者ではなかったであろうか。神の広い心があったからこそ、赦されたのではないか。そうであれば、人生全体におい
ても、その「例外」が及ぶのではないだろうか。恵みに生かされていることを永く忘れてしまっているということはないであろうか、反省したいものである。