2016年11月6日
 マルコの福音書 1章40〜45節
題目 「ツァラアトのきよめ」
高桑 照雄 牧師

説教(奨励)要旨

1.ツァラアトとは
 日本には、「ハンセン病患者」への人権問題の重い歴史がある。日本の教会もその問題に向き合えなかった。旧約聖書は、あくまで「儀式的」汚れとして扱ってはいるが、ツァラアト自体が罪だとは決して述べていない。

2.ツァラアトのいやし
 このツァラアトの人は、律法を破ってイエス様に近づいた。律法違反は死刑であったが、律法の越えがたい垣根を越え、すべてを主にゆだねた。するとイエス 様も彼に近づき彼に触った。主も律法を乗り越え、彼に救いの手を伸べられた。イエス様こそ自然法則(Law)と律法(Law)の制定者であり、法の上に立 ち、病を癒す権威をもたれる。主が十字架で私たちの罪、病、痛みを負われたから。「まことに彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。(イザヤ 53:4)

3.みこころへの服従
 この病人は熱心な信仰を持っていたが、自己流の判断でかえって主の宣教を妨げてしまった。弟子の道は、自己流の熱心で無く主への従順である。
 イエス様の生涯は、病人や、被差別者や、汚れた者に触れ、貧しい者、取税人、遊女、罪人とともに歩む生涯だった。自分だけ安全なところにいるのでなく、 彼らと共に「宿営の外」にまで出られる生涯であった。律法の枠さえ超えられ、ついには呪われた者として自らを十字架に捨てられる生涯、苦難の僕の生涯で あった(イザヤ53:1-6)。この主の歩みに習うものとされたい。
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