2016年8月14日
 マルコの福音書 1章9〜13節
題目 「メシアの受洗と荒野の誘惑」
高桑 照雄 牧師

説教(奨励)要旨

1.メシアの受洗(9ー11)
 私たちは洗礼という入口を通って教会の構成員(教会員)となる。イエス様も罪の赦しを得させる悔い改めのバプテスマを受けた。イエス様は罪が無いのに、 罪人と同じ立場に立たれた。それは、私たち罪人の友となられるため。洗礼を受けるとは、主イエスの仲間、友とされるということ。地上の教会の教会員となる ことは、天国の一員となること。そして、このようなあり方を父なる神は喜ばれた。「あなたは、私の愛する子、私はあなたを喜ぶ。」(11)。洗礼を受けた 私たち一人一人にも言われている言葉。

2.荒野の誘惑(12ー13)
 イエス様は荒野において、サタンと対決をする。(マタイ4:1−11)
・「おまえが神の子なら石をパンに変えてみよ。」
「人はパンだけで・・・」。人は物質だけで生きているのではない。神によって生かされている。父のことばに従うことは食物より大切だ。

・「お前が神の子なら、自分から奇跡を演じ、人々をアット言わせて見たらどうだ。」父と子の信頼関係に楔(くさび)を打ち込むもの。
「あなたの神である・・・」。主の生涯は父への信頼に貫かれる。

・「父でなく私と組んで、この世を支配しようではないか。」
「引き下がれサタン・・・」と、主は見事に誘惑を退けられた。イエス様は支配者ではなく、しもべとして苦難の道、十字架の道を歩まれた。
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