2016年7月17日
 ルカの福音書 10章25〜37節
題目 「隣人となる」
高桑 照雄 牧師

説教(奨励)要旨

 イエス様は遊女、取税人、盲人、足の不自由な人、心の病、異邦人等、社会的、肉体的、精神的、民族的に差別、のけ もの、いじめられていた人々を受け入れ、友となられました。人々がイエス様のところに来て、もういちど人生をやりなおせたのは、イエス様が、その人の内 に、人としての尊厳を認め、ちゃんとした人生を歩める可能性を見ていたからです。たった一人でも自分を信じ、愛し、受け入れてくれる人がいれば、人は生き 続けられます。

 祭司、レビ人は主に仕える仕事をしていましたが、強盗に襲われた人を見捨てました。しかし差別を受けていたサマリヤ人が隣人となりました。

 律法学者の「私の隣人とは、誰のことですか。」との問いに、イエス様は直接答えていません。イエス様の答は「誰があなたの隣人か」なのではなく「あなた が隣人になっているか」が問題だと言われたのです。これが正解です。隣人はわたしたちの周りにいるのです。問題は私たちが真の隣人となっているか、です。 人間疎外といわれる現代、私には隣人がいないと嘆く前に、私たち一人一人がまず良き隣人となることです。マザー・テレサは「愛されたいという渇きは、愛し てこそ、初めて癒されるもの」と言いました。人間は愛に飢え渇いていますが、この渇望は愛されることよりむしろ、愛すること、許すこと、人を受けいれるこ とを通して、癒されるようになります。イエス様は、私たちの隣人となって下さいました。十字架の犠牲を払ってまで、友となって下さいました。わたしたちも 隣人となりましょう。

「あなたも行って同じようにしなさい」(37b)
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