失われた二人の息子のたとえは、聖書全体に流れているテーマ、つまり「流浪と帰郷」という視点が重要である。私たちは、神の国(園)に生きるように創造さ
れた。そここそ私たちが本当に生きるべき世界、神が私たちと共に住み、愛に満ち溢れた、病も死もない、完璧なところ、そここそ私たちの本当の「ホーム」で
ある。
しかし、私たちの最初の先祖は、神に背を向け、神から離れ、あの弟のように自分だけで生きてみたい、そう思い自分からホームを手放した。その結果、異国
をさすらうことになった。聖書によれば、それ以来私たち人間は霊的にずっと流浪の民としてさまよい続けている。つまり、今私たちが住んでいるこの世界は、
私たちの心を本当に満たすことが出来ない。健康を求めるが、病、老い、死から逃れられない。愛を求めるが、私たちの人間関係は、期待を裏切られる。手から
こぼれ落ちる砂のように失われてゆく。最も親しい人ですら、死が互いを引き離す。この世に居場所、ホームを捜し求めるが、聖書はただ、その場所は私たちが
逃げ出して来たあの場所、父なる神のところにしか存在しないと静かに語る。
アダムとエバ、ヤコブ、ヨセフ、イスラエル民族の流浪のパターンは偶然ではない。人類は、ホームに帰ろうとしてさまよう流浪の集団であることが聖書の
メッセージである。そして失われた二人の息子のたとえは、私たち一人ひとりについての現実である。彼の罪が、ホームと彼自身の間の壁となり、その立ちはだ
かる壁によって、ホームを隔てている。
キリストは私たちを帰るべき家に連れ戻すために、迎えに来られた。私たちの代わりに、父に勘当され「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになった
のですか」と叫ばれた。私たち人類のすべての反抗、そして永遠のホームレスとしての呪いをすべて背負われた。それによって私たちが「ホーム」に迎え入れら
れるためだった。やがて私たちも父の祝宴「子羊の婚宴」(黙示 19 章)に招き入れられる。