イエス様のメッセージは、この二人共に父親に背を向けていたということである。遊女に溺れていた息子が宴会で楽し
み、戒めを破ったことのない息子が父の祝宴に入ろうともしない。兄が宴会に入らなかった理由は、その正しさゆえだった。兄と父を隔てている壁は、彼の罪で
はなく、彼が正しすぎたからである。兄は弟と同じくらい父に内心反抗していた。二人共に父から遠く離れ、つまり失われていた。
長年神のため尽くしてきたのだから、神はもっと良い人生を与えてくれるはずだ。神にこんなに一生懸命仕えているのだから、神は私を助け、祝福すべきだ、
という時、あなた自身があなたの救い主になってしまって、イエス様は救い主ではなくなっている。イエス様ではなく、あなたの正しさがあなたの救い主であ
る。
二人は対照的だが、その根底は同じ動機だった。父の愛ではなく、富を追い求めていた。父ではなく富が自分を幸せにすると考えた。
弟は、父から離れた生活を送ることによって、父との関係に本当の喜びを見出すことができた。しかし兄は、宴会に招かれたにも関わらず、その本心をむき出
しにし、父を傷つけ、拒絶した。道徳的基準を守る人も、全く守ろうとしない人と同じくらい、霊的に失われた存在になりうる。
二人の息子は共に間違った歩みをしていたが、父は二人共に愛し、二人共に喜びの祝宴に招き続けた。福音においては、全ての人が間違っていて、全ての人が失われていて、全ての人が愛され招かれている。