2015年8月2日
 ローマ人への手紙 3章20〜28節
題目 「義とされる恵み」
高桑 照雄 牧師

説教(奨励)要旨

 私たちが義と認められるのは、私たちの信仰(信頼)を受け入れてくださる神の恵みである。これは私たちの行いや、 私たちの状態とは全く関係がない。このことを信じる(信頼する)者を神が一方的に義と認めてくださる。その根拠は、イエス様の十字架の贖いのゆえである。 義と認められても、私たちはなお罪を犯す。それゆえ、いつも悔い改めが必要である。義認こそ、私たちの悔い改めの根拠である。

 「義」とは、「規範となるべきもの」「正しい基準」という意味がある。基準としての義は、神の義でなければならない。神の義は、不義を見過ごすことが出 来ない。しかしその義は、罪人を義とするために、キリストを十字架につけられた。キリストの十字架は、罪人の不義に対する裁きであり、復活は、信仰によっ て罪人が義とされる保証である。「神の義」は、「裁く義」としてではなく、「救う義」として、信仰をもって受け取るべき義として示されている。

 罪人は罪人でなくなって義とされるのではなく、罪人でありつつ義とされる。そこには修業的、道徳的行為の入る余地はなく、ただ「恵みのみ」である。人 は、自分の力や功績や行いによって義とされることはありえない。ただ信仰を通して、キリストのゆえに、無条件で、義と認められる。罪人である私たちの内に は「義」はなく、ただキリストこそが「私の義」である。「キリストの義」に生きることは、古い自分に死に、キリストを「私の義」と信じる信仰に生きること である。「義人は信仰によって生きる」(ロマ1:17)
このウィンドウを 閉じる