パウロは、15:13をもってローマの教会に教え、勧めたかったことを語り終えます。さらに手紙の終わりの部分は、パウロ自身が、ローマの教会に行ける見通しがあることを覚えながら語り続けます。
今日の箇所でパウロには、神の救いのご計画においてローマの異邦人を神に受け入れられる供え物とする使命があることを明らかにします。
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1.私たちひとり一人は、神様に受け入れられる供え物となっているでしょうか。
パウロは、イエス様を信じて救われた者はいかに生きるべきか、最も基本とすべきことをこう教え、命じています。「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」(12:1)。
イエス様を信じて救われた者は、救ってくださった方のみこころに自分をささげて生きる(=礼拝)べきこと、しかも自分のすべて(「あなたがたのからだ」)を、生活の只中で、生活のすべて(「生きた」)をささげることによって、神様に受け入れられるのです。
それこそが、救われた者にふさわしい、理にかなった(「霊的」)礼拝なのだ、とパウロは、教えているのです。
「聖い、生きた供え物」。パウロは、明らかにご自分を「傷のない子羊」(レビ記1:10)として、またひとり子としてのすべてを十字架にささげられた、イエス様を指し示して教えています。
ですから、私たちが「聖い、生きた供え物」となるためには、このイエス様を受け入れ、信じ、イエス様とひとつに結びつき、イエス様を着て生きること以外に道はないことを覚えたいのです。
2.私たちが、イエス様を信じ続けて、「神に受け入れられる、聖い、生きた供え物」とされ続けるために何をなすべきでしょうか。
パウロは、「聖霊によって聖なるものとされ」(16節)ることであると言っています。聖霊は、信仰の生活を大切にして守るように導かれます。
聖霊は、私たちが、みことば、聖餐・洗礼、祈りの生活を最優先して守ることを導いてくださいます。感謝をもって覚え、平安を得てまいりましょう。(「ウエストミンスター小教理問答」問88-99参照)