2014年10月19日
 ローマ人への手紙15章7〜13節
題目 「望みの神」
高橋 善樹 先生

説教(奨励)要旨

 ペテロは、12章以下でイエス様を信じて救われた者は、どう生きるべきかについて教えているのですが、14章から は、教会の交わりについて「互いに受け入れなさい」と勧めています。今日の箇所は、その締めくくりです。割礼のある者も異邦人をも十字架に受け入れられ て、救いの希望となられたイエス様に倣(なら)おう。という勧めです。
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1.パウロは、なぜ「互いに受け入れ合いなさい」と紙幅(しふく)をさき、繰り返し教えているのかについて覚えたいことです。
 この手紙の12章以下15:13まで、パウロは、そのほとんどの部分を教会の交わりのあり方に充(あて)ています。その中心が「互いに受け入れ合いなさい」ということです。
 それはなぜでしょうか。
(1)教会は、神様によって呼び出された人たちの”集い”です。集いの中身は”交わりと分かち合い”です(使徒の働き2:41-47参照)。”交わりと分 かち合い”は、互いに受け入れ合うことで成り立っているからです。生きた教会は、じつに、互いに受け入れ合うことによって成り立っているのです。「受け入 れ合う」=「加える」+「(神様から与えられて)受け取る」でした。
(2)教会は、まことの神様をこの世に証する集いであり、世の光、地の塩としての使命を負った集いです。そのためには、まず集い自体が、互いに受け入れ合うべきだからです。
(3)まことの神様をこの世に証することは、イエス様を信じるという信仰の木がつける実である平和、喜び、希望を集いが光として輝かせることです。「互いに受け入れ合う」ことが、その基となるからです。

2.「互いに受け入れ合うこと」の望みは、ただ神様の力とお働きによることを覚えたいことです。
 世にある教会の現実は、昔も今も、東・西を問わず「互いに受け入れ合うこと」のじつに苦手な群れです。コリントの教会もガラテヤの教会もそうでした。私 たちの泉教会はどうでしょうか。パウロだったらどんな手紙を書いてくれるでしょうか。13節のパウロの祈りを泉教会への祈りとして受け取り、心に刻み続け たいと思います。
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