1.主イエスの受洗
主イエスは、宣教を始められる時、罪を悔い改める人々と一緒に洗礼を受けられた。罪のないお方が、罪深い人間と共に歩む道を選ばれた。
2.父の愛のことば
天の父は、そんな主イエスに対して言われた「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」主イエスは『自分が何者であるのか』を自覚し、深く深く
心に刻み込んだ。この直後の荒野での誘惑は、この霊的アイデンティティーをダメにしようとするものだった。「あなたは石をパンに変えることができる。神殿
から飛び降りることができる。民衆をひざまずかせることができる力がある者だ。」しかし主イエスは「いやそうではない。私は、父に愛されている者だ」主イ
エスの全生涯は、このアイデンティティーを主張し続けた歩みだった。「人々は私を見捨てるだろう、しかし父は私を見捨てない。なぜなら、私は父に愛されて
いる子だから。」
3.私たちは、いったい何者だろうか。
私たちは、天の父に「愛されている子ども」(エペソ5:1)である。「わたしは永遠の愛であなたがたを愛した」(エレミヤ31:3)。私たちは、生まれ
たときに主に愛される者となり、死ぬときにそれが終わるのではない。主に愛されていることとは、永遠のことである。この愛は親が私たちを愛してくれる前か
ら、永遠の初めから存在し(エペソ1:3-5)、家族友人に死を看取られた後にもずっと続くものである。死とは、その主の愛のもとに完全に帰ること、永遠
に主の愛に安らぐこと。これが主の永遠の愛である。この愛を告げるために、主イエスはこられた。
十字架の死にいたるまで主イエスは私たちに愛を注がれた。もしそうなら、私たちがこの世に滞在している短い人生とは、「主よ、私もあなたを愛しています」と言うためにある。