「神がいるなら見せてみよ。」と人は直ぐに証拠を求めがちです。
マタイは主がペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて山に登られた時、ご自身が「神の子・『救い主』であること」を明らかにした出来事を書き記します。ここはマタイの直接の目撃証言ではありませんが、その記述は実に詳細を極めています。
弟子たちの中で3人だけを連れて行った。3人はキリスト昇天後の重要な働き人。この出来事をある程度十分に悟る状況にある人たちだったと思われます。
3人が目撃したのはイエスがモーセ(律法)を、エリヤは(預言者たち)を代表し、共に旧約を代表していた。ペテロ、ヤコブ、ヨハネは新時代の教会を代表
する人たちと言えるかも知れない。その彼らがイエスの変貌する姿と「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」と言われ
た天からの父なる神の声を聞いて振るい慄(おのの)きました。
このとき、ペテロは何と言っていいか分けが判らなかったという。
神の子イエスの変貌の姿を見ても慌て、その意味を理解しない。声を聞いて畏(おそ)れるだけ。神を目の前にする時、人はその目を居竦(すく)められるだろう。見えないことこそ、哀れみではないかと思わないだろうか。ペテロ1:15-19