パウロは12章以下でイエス様を信じて救われた者は、どう生きるべきかを勧めますが、13章の後半で、ひとつの結
論を出します。「隣人を愛する者は神の律法を完全に守っている」(13:8)。隣人愛が、みこころに生きることのすべてである、とです。具体的にはどうい
う生活なのか。今日の箇所「主イエスを着なさい」です。
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1.「今がどのような時か」(11節)について理解を確かにしたいのです。
パウロの時にも、今日の私たちにも、今は、「終わりの日」(イエス様が、再臨されてさばきをされる日)が、いつ来てもよい時です。
この差し迫った時(「終わりの時」ヘブル1:2)は、イエス様がこの世に来られた時から始まっています。神様は「終わりの日」が近いことを明らかにされるとともに、イエス様を贈ってくださったのです。
パウロの時から2000年が経ち、「今は救いが私たちにもっとも近づいてい」ます(11節b)。私たちは、信仰をさらにイエス様に集中して、自分の救い
を確かなものにするとともに、「終わりの時」を備えられて、「ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めて救われることを望まれている」(第二
ペテロ3:9参照)、神様のご愛にあずかって、良き証人として用いられることを祈り続けたいのです。
2.「イエス様を着る」ことを生活の只中で覚えてまいりましょう。
「イエス様を着ること」は、a)イエス様を信じ、イエス様の中にひとつに結びつくことであり、b)イエス様に結びつけられた者にふさわしい生き方をもってイエス様を現わす(証する)ことです。
聖晩餐のもとの形は、食事です。パンを食べ、杯を飲むことでした。イエス様は,日々の食事に、救いという霊的な意味を与えられました。
パウロは、衣服を着ることを十字架と復活のイエス様とひとつに結びつき、生き方を持ってイエス様を現わすべきことを、たとえで教えてくれています。ともに生活の只中でイエス様を覚えるためです。
<結び> 私たちは「終わりの時」に生を受けたものであり、イエス様を信じて救われている者であることを感謝するとともに、イエス様をしっかり着て、まだ”眠りから覚めない”人々の隣人となって歩むことを祈り・求めてまいりましょう。第一テサロニケ5:4-8。