8節 「心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから」と主は言われます。主は「幸い」を宣言します。幸い
の概念は人の思いからではなく、神が恵みによって御霊によりさとされるものです。世俗的な感情で考えるものではありません。日本古来の自然との合一に幸い
を感じることでもありません。
「きよい」とは混じり気のない、純粋を言います。ふた心でない(ヤコブ1:8)。水で薄められていないことを意味しています。
主を裏切ったユダ゙の論理は世俗的価値観です。人が人として生きている限り、何かに縛られて生きています。光であるキリストを知らない心は闇の奴隷で
す。イエスは人は新生なしに神の国を見ることはできない(ヨハネ3:3)と言われました。新生とは天からのパンである主を信じることでしたが、弟子達や多
くの人々は「これはひどいことばだ...。」と言って、イエスから去って行きます(ヨハネ6:60)。彼らはイエスを殺そうとします。(ヨハネ5:17、
18)
安息日の掟を曲解し、人間の不純な動機が神の計画を見えなくした結果であると言えます。「わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、誰もやみの
中にとどまることのないためです。」幼子のように純粋な目が必要でした。
イエスは言われました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(ヨハネ14:6)