2014年1月26日
マタイの福音書5章7節
題目 「深い淵にまで」
加藤 正之 牧師

説教(奨励)要旨

 「幸いです。」人は何故か、幸いがあると信じている。だから幸いを求める。「幸い」は多くの文学や哲学のテーマでもあります。幸せの青い鳥の話や山のあなたに幸いを求めて旅立つ人の歌もそうです。主イエスの説明はどうでしょうか。

 刹那的な快楽に幸せを感じる人は少ないでしょう。主イエスは「心の貧しい者」と言われて「心」のありようを問題にしています。しかも、心に貧しさや、悲 しさ、義に飢え渇いている状態を「幸いです」と断定するのですから、驚かされます。世の常識から言うと全く異なっています。自分に嘆き悲しんでいることが 何故幸せか。その理由を6節で考えましょう。

 6節の「義」とは「正しさ」ですが、自分の中に義の欠如を見て義を求め正しくありたい、義とされたいとの願いがつのります。しかし、パリサイ派は神の言葉を薄めて正しくない道にそれ、悪を善とし真の義への渇きを失いました。

 7節の「あわれみ深い者」とは何ですか。義への飢え渇きを知った者こそこの意味を知る者です。義の飢え渇きを満たす道は何ですか。個人の努力や善行です か。「いいえ。」ただあわれみを受ける道だけです。誰からのですか。神からのです。神は罪の身の私たちをあわれみ、御子を送って私たちの罪の身代わりとし て十字架につけたのです。イザヤ53章は紀元前700年も前からの神の預言です。遙かな昔から私たちの心を解放するために永遠の滅びという深き淵から救い 出されたのです。
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