パウロは12章以下でイエス様を信じて救われた者は、救ってくださった方のみこころに生きるために自分をささげよ、と勧めます(12:1、2)。そして、神のみこころは、究極的には隣人を自分のように愛することであると教えます。それが、今日の箇所です。
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1.私たちは、隣人を愛せない者であることに苦しみ・泣く経験を大切にしたいのです。
”神様が、私たちを愛してくださっているように隣人を愛すること”これが神様の求めておられる隣人愛です。さらに神様は、私たちの隣人愛の心をご覧にな
ります。自己満足的な、肉的な隣人愛を決して赦されません。神様が愛してくださっているのに自分は、隣人を愛せない、愛の負い目を負って苦しむしかありま
せん。でも、この経験が大切です。愛のない自分に泣いた者にしか、私たちの隣人となられたイエス様のご愛(十字架と復活)は、分からないからです。
2.私たちが、隣人を愛することが出来るのは、イエス様のご愛にあずかることによるだけであることを覚えたいのです。
私たちの隣人を本当に愛してくださっているのは、神様です。私たちは到底イエス様のように隣人を愛することはできません。ただ、救い主であるイエス様を
隣人に証することによって、また、イエス様の手足となって隣人と交わることによって、イエス様の愛の働きにあずかることが出来るだけです。私たちはこうし
て、律法を全うすることがゆるされている(8、10節)ことを感謝をもって覚えたいのです。
3.隣人を愛する行いが,具体的に示されるまで祈ることの大切さを私たちは、知っておきたいのです。
隣人愛は、お祈りを含む行いであり働きかけです。行為です。そしてそれは、二人三人の祈り(マタイ18:19、20)が深められる中で神様から具体的に示されることであることを覚えたいのです。
<結び>隣人を愛する心を起こされ、愛の働きを行わせ,隣人となること(ルカ10:36)を許されるのは神様です。「祈るだけでいいのか?」と疑わずに祈りに集中してまいりましょう。ピリピ2:13、14。