【先回までの主旨】
教会に神を求めて来られる人生は正解でした。人間の苦難の歴史の中にこそ愛の神の活動に触れられるからです。
【今日の要旨】
義とは何でしょう。第一義的に、極めて一般的には「正しい」ことです。しかし、正しさとは何でしょう。大多数の同意が認める行動の基準である場合。その基準はその集団に最大限に利益をもたらすものと考えられています。
その場合の正義は他の集団の利益と衝突してしばしば悲劇をもたらせます。同じように他の人が考えつく基準にも迷誤と失敗に終わるだけです。
パウロも「義人はいない。ひとりもいない。」と、御霊によって告白しています。この言葉は彼の時代を遡ること100年ほど前のダビデ王の心からの嘆きで
もありました。詩編14:1-2、53:1-3が記すところです。彼はバテシェバのもとに通って、預言者ナタンの叱責を受けた時、自分は生まれながらの罪
びとでしたと、告白するのです。(詩51)
義を求めて自分なりの義の追求に沈むなら、人は深く自己の罪の悲しみを知るだけでしょう。
しかし、それなのに主は「義に飢え渇く者は幸いです。」と言うのです。不可能な義を求めても失望に終わるのでは? しかも、「その人達は哀れみを受ける」というのです。どうしてでしょう? 神の示す義とは第一に十戒です。その真意は山上の説教にあります。
そうです。愛と義の会えるところ、そこに神の私達に与えてくださる義があったのです。