【先回まで】
「教会に来て神を見よ。」と言われて行くと多くの人が失望する。誤り易い人の目で見るより,神が自分を見られている事実に気がつくことが一番。
1.人の悲しみを知っておられる神
(1) 日々の悲しみ 人の生涯と共にある悲しみの事実
一日中、心の中に住みつく悲しみ。(詩13:2)
悲しみで尽き果てるいのち。(詩31:10)
知識を増す者は悲しみを増す。(伝道の書1:18)
その一生は悲しみ。(同2:23)
(2) 悲しみの由来 神の慈しみの眼を避ける(創世記3:8)
主の目を避ける。主の王座から人を見ておられる。(詩11:4)
罪の腐敗から来る悲しみ。(詩51:5-6)
神の愛の試練による苦しみ。サタンの攻撃による苦しみ。(ヨブ3:1、6:1-10、7:7-19)
それは神の計画に関する知識不足から来る苦しみであった。(同42:2-3)
神が御顔をそむけることを最大の悲しみとする。(詩34:15-16、80:3他)
2.真の慰めを用意しておられる神 「慰め」の言葉に”共に叫ぶ”の意味がある。
悩みの時に主に呼ばわる。(詩34:6)
主の救いと助けがある。(イザヤ51:12)
共に叫んで下さった方は「わたし、この私があなたがたを慰める」と言われた。(詩22:1-2)
彼は悲しみの人で病を知っていた。(イザヤ53:3、ペテロ第一2:24-25)
主こそ悲しみの本質を知り、私たちの悲しみを背負い十字架につけて下さった方であった。この方以外に神があるだろうか。
主はペテロを振り向いて見つめられた。(ルカ22:61)