人生には何故か苦しみがある。
昔から人はこの謎に取り組んで来た。苦の由来を知らないから闇。ある人は「苦を避けるために苦を論じても答えはない。」と言う。そこで人は言う。「苦に
よる損失を何かで埋め合わせればいい。」と。ニーチェは「人が苦しみを説明するために神を創造したのだ。」と言った。闇も光も創造した神こそすべてを知る
真理の光ではないか。
イザヤを見ればよい。イスラエルの歴史に身を置いた彼から、同族の民が苦の損失の埋め合わせのために神の思想を創造したか否かを知るがいい。彼は彼の民
の歴史以前から神の声に導かれて来たことを知っている。人が苦の中で神を呼んだから神がいたのではない。何故人が先で神が後になるのか。天地は神の被造
物。神の召しがこの民の歴史の出発。
9節のことば「あなたが叫ぶと、わたしがここにいる。」とは、一見人の苦が「ここに神」を要請したからここに在るように見える。だが、人が「叫ぶ」前か
ら神はすでに永遠にそこに居た。「主は生まれる前から、私を召し、母の胎にいる時から私の名を呼んで」ていた(49:1)。「私はあなたを呼んだ。あなた
はわたしのもの」(43:1b)といわれる。この出発が私の人生に光をもたらす。
「牛はその飼主を、ロバは持ち主の飼い葉を知っている。それなのに、イスラエルは知らない。わたしの民は悟らない。」悟れないなら闇のままを歩むしかない。光の御子を否定してどうして人生は明るいか。闇を受け入れて洞窟で生きる魚はいる。が、光に生きる人は光の子だ。