主・イエスが神の権威を行使する時、神の慈愛を示すためであった。慈愛の行使こそ神の正義であった。堕落した人間が神から授かった慈愛を行使するには、まずキリストの身代わりの死の意味を信じて新生することと、聖霊の導きを識ることが先決。
信仰者はキリストの死によって神の家族となれば神の子。その家は聖霊の宮。聖霊は御言葉によって養い導く。神の言葉には創造の力と治める力があり、また、神の愛の約束そのもの。だから、御言葉に生きる者が権威と慈愛の行使者となるのは当然。
この信仰の真理の受容を前提。機械的に知識を行使する失敗。「叫び祈る」無力さの自覚の先に見えて来る神からの更なる光がある。その道筋が以下の章節で見えて来る。
<聖書の事実と説明>
10節)キリストは罪の人に代わる子羊として一度だけ御自身を献げた(ヘブル7:27)。しかし、キリストは神に対しては生きておられる。
11節)信仰者も罪に対してキリストにあって死んだが神に対して生きている。
12節)朽ち果てる身体を罪の支配に委ねるな。その情欲に従わせるな。
13節)五体を不義の器として、罪に献げるな。自分自身とその手足を義の器、神に献げよ。(器:武器 第二コリント6:7)
14節)それは罪があなたを支配しない。罪の奴隷ではなく神の僕だから。律法の裁きの下にいない。恵みの原理の下にあるから。