マタイの福音書は、イエス様がお生まれになる直前の二人の信仰者の様子を伝えています。神様が備えられた正しい人ヨセフ、そしてその婚約者マリヤの信仰
から教えられてまいりたいと思います。
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1.まず、聖書が語っている順序に従って、マリヤに与えられ、導かれた信仰の真実を見つめたいと思います。
先ほどふれましたように、マリヤが、聖霊によって身重になったことを誰がどのようにしてわかったのかについて聖書は、沈黙しているのですが、私たちは少
ない手がかりを基にして、マリヤが、信仰において祈りにおいてわかったことではなかったのか、と考えてみたいのです。
マリヤは、自分がおとめであることと、身重であることの厳然とした事実を前にします。しかも命がけの事態を前にします。14歳ほどであろうマリヤに出来ること
は、これまで教えられ、信じてきた神様を幼子のように信じ、神様の約束してくださっているみことばに思いをめぐらし、神様との交わり、祈りの中に望みを託
して、この出来事を神様にゆだねることであったと思われます。マリヤはイザヤの預言「見よ。おとめがみごもっている。」(7:14)をどう覚えたでしょう
か。心を注ぎ出すような(Tサムエル1:15)切実な神様との交わり、祈りが、続いたと思われます。
ついに神様は、マリヤにこの出来事がご自身のみこころとお働きによる、聖霊による出来ごとであることを啓示されます。そしてマリヤは「わかった」と思う
のです。
ちなみに、「わかった」と言う言葉は、切実な経験を通して深く考え、広く思い巡らして、見出す、悟るという重い言葉が用いられています。
マリヤは、この出来事が神様の事実である故に、正しい人ヨセフもまた必ず受け入れてくれることを信じて、ヨセフにも伝えたと思われます。
イエス様のご降誕は、このマリヤの命をかけた真実な信仰の中に起こされた出来事であったことを覚えたいと思います。
2.次に、この出来事の中心人物であるヨセフの信仰に注目します。
おとめであるマリヤが身重になっていることについて、ヨセフは何らかのかたちでマリヤから伝えられたはずです。
ヨセフは、マリヤを許嫁(いいなずけ)として幼い時からずっと見てきました。そしてマリヤとの結婚が神様のみこころであることを確信し、自分の信仰の良
心にもマリヤはかなっていることであり、マリヤもヨセフを正しい人と受け入れてくれていたので、マリヤとの婚約を決めたのではなかったでしょうか。
それでも、ヨセフには、聖霊によっておとめが身重になることは、マリヤの告げたことだけでは理解できない、わからない出来事であったのです。
ヨセフにはマリヤが、自分を裏切り、罪によって身重になっているなど、思いもよらないことですから、動かしがたい事実の間に納得できる関連を見出せない
まま悩みぬいたことが想像できます。そして、ヨセフが決めたことは、内密にマリヤとの婚約を解消し、離縁状を渡してマリヤを自分から去らせることでした。
こうすれば、マリヤが姦淫の罪を犯して、律法違反で裁かれ・さらし者にされるのを免れると考えての選択でした。
それでもヨセフは、さらに悩みながら思いめぐらし、考え続けたでしょう。それとともにマリヤを去らせる時を模索していたと考えられます。「思いめぐら
す」という言葉は、”中で”という前置詞と”魂”あるいは”激しさ”という名詞が1つに合されて出来ている言葉です。
正しい人ヨセフはさらに深く、広く考え、神様のみこころに思いを巡らして続けていたのです。一方で、マリヤが身重であることが公になる可能性は、刻々と
迫っていました。
この差し迫った時に神様は、ついにヨセフとの交わりを起こされ、真実を示されます。ヨセフは、主のみ使いの言ったことが、マリヤが自分に告げたことと全
く同じであるばかりではなく、これから生まれてくるのが息子(養子)であること、すでにイエスという名が与えられ、さらに、その子には”神は救い”という
その名が意味する使命が明らかにされているのです。ヨセフは、神様がなされていることに圧倒され、神さまを恐れます。
ヨセフは、主の命じられたように、マリヤとの婚約の期間を切り上げて、マリヤを迎え入れ(元の言葉は、”傍らに取る”)、結婚に至ったのです。
神様のなさる真実に圧倒され、神様を恐れ神様に信仰を持ってすぐに聴き従いお応えする。これが真実な神様に対する正しい人ヨセフの信仰です。
ヨセフの信仰がなければ、イエス様は、ダビデの子孫ではなく、マリヤの私生児となるところでした。あるいは、最悪であれば、石打ちの死刑となり母子とも
に命を絶たれる可能性もあったのです。
イエス様は、神様に導かれたヨセフの真実な信仰の中で、この世に来られたのです。
3.最後にヨハネ1:14のみことばに導かれたいと思います。
「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまこ
とに満ちておられた。」
神様は、私たちに「恵みとまことに」満ちた方、慈しみと真実に満ちた方、イエス様を贈ってくださいました。。イエス様は、「私たちの罪のために死に渡さ
れ、私たちを義と認められるために、よみがえられ」て、(ローマ4:25)私たちに「恵みとまこと」を示されました。
私たちはこの「恵みとまこと」に、イエス様を信じる信仰をもってお応えしつつ生きたいと願うものです。(ローマ1:17)
神様は、そのために、ヨセフとマリヤという真実な信仰者をお手本として備えられてその只中にイエス様を贈ってくださったのです。
私たちは、このことを改めて深く覚えながら、多くのことが起こり、キリスト者としての新たな決意を迫られた、2011年のクリスマスを迎えたいと思いま
す。