この聖書の箇所はイエス・キリストの十字架の身代りに関する預言であると言われています。預言者イザヤが紀元前700年程前に預言しました。彼は「主は語られた」として膨大な預言の書全体を記します。
そこで、53章に至るまでの預言とその特質を簡単に見てみましょう。彼は人の罪を裁かれるが、自らの罪を認め嘆き赦しを求める者に向かって誠実に答えられる愛の神の存在に触れながら、その救済計画を記します。(イザヤ1:18)
主の来臨と教え、終わりの日の裁き(同2:2−4)の予告、光の中を歩む事の勧め。(同5)そして、救い主が乙女より生まれること。(同7:14)主は異邦人のガリラヤに現れ(同9:1、2)、救い主はダビデの家系から出て聖霊が伴われ、霊において主の知識と主を恐れることを真に知る方であることなど(11:1−5)、ほぼ救い主の輪郭を預言しているのでした。イザヤはこの主を讃えます。(同25:1)計画を忠実に成し遂げ、弱き者、貧者達の砦(同4)、そして、その主を喜べ(9)と云う人々の姿が告げられています。そして今日の箇所は「救い主」としての最大最高の姿を預言していてあまりあるところです。救い主はどんな形で現れたでしょうか。