■質問
長老教会の、「長老」とはどういう意味ですか? また、長老は教会内で
どういう役割を持っているのですか?
長老教会はどうしてカトリックから分かれたのですか? 礼拝で、長老教会
だけの特徴はどういうものがありますか?
■答え
返事が大変遅くなり申し訳ありませんでした。以下簡単にお答えしたい
と思います。
「長老」は一般に年長者を意味しました。旧約聖書の出エジプト記の3:16
などを見ますと、おそらくそれぞれの部族を代表する年長(ザケン)の
長達が集められたのではないかと思われます。このあたりから次第に、
集団を治め、その集団を代表する責任ある立場にいる役割を示す呼び名に
なっていったようです。
新約聖書の時代になりますとシナゴグ(会堂)が各地に広く設けられ、
安息日ごとに聖書朗読などが行われ、礼拝が守られたりしましたが、その
管理運営は長老達が行いました。そればかりではなく、町や村、地方の有
力者として、政治的にも重要な責任を果たしました。マタイ26:3、使徒24:1
などで、新約聖書ではこの長老をギリシャ語でプレスビュウテロスと表し、
後英語ではeldersと訳されたり、presbyterと表しました。
後のキリスト教会の長老会をpresbytery(プレスビタリ−)と呼ぶよう
になったのは、ここに由来しています。
やがて、この新約時代のユダヤ人のシナゴグでとられていた長老の役割を
初代のキリスト教会も受け継ぐようになりました。
そこでは、教会の指導、監督、管理をつかさどる役割をもつ者として、重要な責任を
果たしていました。
この役割は初代教会においては、「長老」と呼ばれると同時に「監督」
とも呼ばれておりました。教会で初めて「長老」の語が現れるのは使徒の
11:30のエルサレム教会においてです。
その後、使徒15:4、6でエルサレム会議が、使徒たちと各教会を代表する
長老達が集まって開かれ、聖書の正しい理解に立つための、話し合いに基
づく確認作業が行われました。
そして、その結果を全教会に伝えるために担当者を派遣する事が決議され
ました。このようにして、教会の群れの中に入ってくる律法主義やユダヤ主義
の誤りから、初代のクリスチャン達を守り導く役割を長老達は果たして行
きました。主の弟子達であった使徒達は、各地域の教会ごとに長老を選ば
せて、それぞれの教会の信徒たちの群の御言葉による霊的育成と指導と宣
教の働きにあたらせました。自分達の群ればかりではなく、弱い群れに対
する援助と独立を助ける必要にも配慮しました。(使徒20:28-35)
さらに、長老の間で、その賜物にしたがって、主として御言葉の宣教の
務めをもつ長老(教会では牧師職として責任を果たす)、信徒から選ばれ
て、主として群れを牧師と共に治め、管理する長老として責任を果たしま
した。先のエルサレム会議の例でもわかるように、各教会の長老達が集ま
り、全教会を導き育てる体制を今日の長老教会も受け継いでいます。主と
して御言葉を伝え、教える賜物を与えられた長老は教師としての資格を持
ち、この資格を持つ者が各教会か牧師としての働きに携わります。この教
師として召された者は、深い神の御言葉の理解と宣教のために多くの学び
と献身が必要となります。そのためには一教会だけではなく多くの教会が
集まって教師の育成が必要となってきます。
やがて、多くの教会の協力を通して、教師となって必要な教会に、全体の
教会の了承のもとに牧師として招聘されて、地域の教会に遣わされるわけです。
地域の各個教会には信徒から選ばれた教会の代表である長老達がおり、
教師として資格を持った長老を牧師として迎えることになります。
ですから、自ずと二つの種類の長老の役割の必要性が生じてきた理由が
わかるかと思います。この長老制度は、イエスさまによって権威を与えられた
使徒たちが、もともとイスラエルにおいて古くから行われていた、霊的魂の
育成指導体制を引き継ぎ、それを初代教会なりに取りいれた最善の方法で
ありました。
現在の長老教会は聖書に示されている通りの方法を受け入れ、行っていく
ことが最善と考えております。
長老の大事な働きは信徒一人一人を、祈りによって、主の御言葉にゆだね
ながら魂が養われるように心配る事です。単なる道徳主義やこの世の哲学
から守り、これら、世俗的思想によってではなく、神が創造された、自由
で、自発的に神の言葉に聞き従い、神の栄光を表して、喜んで生きる人の
育成に牧師と共に取り組む事です。信徒の弱さ、成長の度合いに従って、
涙をもって、キリストのからだとして、一人一人に目を配り、建てあげ、
独立した一個の人間として神の愛に喜んで仕えていく人を育て、教会全体
を形成するために献げることが長老の務めだと言うことです。そのことの
ために兄弟姉妹たちに仕える人でなければなりません。
牧師としての長老は、全体のために仕えて行く面が強く、他の地域の教会
に遣わされる可能性が大であり、また、全体に属す者ですから、地域の教会
の代表にはなれませんが、群れに残り、そこで、群れを代表して仕えるのは
信徒から選ばれた長老です。この点、信徒から選ばれた長老さんは群れの
代表的な面が強いと言えます。
しかし、群れから選ばれ、神に仕える者でもありますから、信徒のエゴ−の
代表ではないと云うことを明記されるべきことでもあります。
次の質問ですが。
それは、「長老教会はどうしてカトリックから分かれたのですか?」と云うことですね。
長老教会は宗教改革の進行する中で生まれて来たものですが、ローマカトリック
の中で分派が生じ、長老教会として分かれて出て来たわけではありませんでした。
実はローマカトリック教会の教理と一般歴史の中での行動が、聖書の教えるところ
との間に大きなギャップが露われ、教会の内外で、批判が沸騰していました。
カトリック教会を支配していたのは、神の言葉の真理ではなく、むしろ、無神論者
達の思想や指導者達の言動でした。敬虔を装った地位と名声の欲望の虜となった、
無神論者達の巣窟と言ってよいでしょう。当時のカトリックの指導者達は悲しむべき
人間の罪の現実そののであって、おおよそ聖書の教えとは無縁でありました。
しかし、真実の神は黙ってはいませんでした。神はこの教会を激しく裁かれたと言
ってよいと思います。
カトリック教会の問題点は、教理的な点では、大きく分けて、聖書の理解、救いの
理解、教会の理解、教会の組織の理解などで、聖書の事実との違いがはっきりして
います。その違いは、聖書が一般に読まれるようになってから、より明確になってき
ました。その結果、使徒時代の純粋な教えに立ち返って、生きようとする動きの中で、
ルターに始まる宗教改革に続いて、聖書主義の立場に立って、ルターの宗教改革より、
さらに一段と改革を進めたのがカルバンを旗手とするプロテスタントの人々でした。
そのカルバンは聖書の長老主義制度を受け継ぎ、ローマの監督制度に反対する一方、
ローマカトリックと政治制度上対極となる会衆政治をとるアナバプテスト主義の人々に
反対しました。そこで、カトリックについては、詳しくは、他の質問者への回答の中で
説明したいと思いますので、ここでは簡単にいたします。
ローマカトリック教会では、聖書の権威よりも教会の伝統や権威を聖書の上におきます。
聖書の中に外典を入れ正典と同じ位置におきます。また、聖書の啓示以外に、自然啓示
を聖書と同じ位置においています。礼拝は御言葉の説きあかしではなく、決められた
儀式を守る形式にこだわっています。祈りも祈祷書に決められた通りに祈ります。
プロテスタントでは、儀式は聖餐式と洗礼式のです。カトリックの聖餐式で呑むぶどう酒
は則キリストの血に変わるといいます。
パンはキリストの肉そのものに変わると云う考えに立ちます。この考え方はプラトンの
哲学の影響を強く受けていると言われています。プロテスタントではパンも血も象徴的な
ものとして捉え、その儀式を通して、イエス・キリストの血と裂かれた肉を思い起こして
十字架による罪の赦しを霊的に体験します。
また、マリヤはキリストの母であると云うことで、神の母であるから神と等しく崇拝の
対象にします。救いの教理については、人間の修業や努力による救いを認めます。
ルターはこの点で聖書の教えと矛盾する事に気がつき、反対しました。聖書はただ
信仰によって神の恵みによって救われると述べています。それが、可能となったのは、
人となられた神・キリストの私達の罪に代わって罰を受けられ、十字架にかかって死
なれたことによります。これを信じるだけで救われると云うのがプロテスタントの主張
です。
これに対し、カトリックは、一般信徒は世俗に生きて罪から自力では救われませ
ん。そこで、修業を積んだ聖人が自らの修業によって自分の罪を贖っているので、
それ以上の修業によって得た余剰の善行の功績績を天に蓄えており、一般信徒は
献金をする事によって、聖人の名前で祈る事によって、聖人の余剰の功績を分け与
えていただくことができるといいます。
また、教会はローマカトリックこそ永遠の教会であると主張し、永遠普遍の普遍が
意味するカトリック教会と名づけました。この教会の最高位にペテロの継承権を持つ
者としてローマの法王が君臨します。彼はペテロに受け継がれたイエス・キリストの
権威を継承すると考えます。法王は誤る事のない権威をもつといいます。
この法王を頂点としてその下に階級制度が敷かれ、聖職者と一般信徒との間に
明確な越えることのできない区別をおきます。全世界のカトリック教会はこの法王に
よって支配を受けます。この教会の政治形態を監督政治と言っています。
プロテスタント教会の中で長老教会は、信徒の中から選ばれた長老達と教職長老
である牧師によって教会を治めます。しかし、信徒と長老は同じ信徒であって、そこに
は区別はありません。ただあるのは賜物の違いです。教会の中の役割分担が、神の
導きと賜物の養成によって次第に明かにされていく中で、互いに認め合い尊敬し合って、
その賜物を献げ合う交わりとなります。
人は上に立って君臨するのではなく仕え合うことによって教会を形成するのです。
しかし、教会は個々の教会同志がバラバラではなく、各教会の長老達が集まって、
教会全体に仕え育てていくのです。物事の決定は長老達が集まってなされます。
しかし、各教会の信徒一人一人の必要には耳を傾け、強制されてではなく、自由な
信仰に立って神に喜んで仕えて行くことができるように、信徒の声を聞く事に務めます。
これに対し、カトリック教会の監督制の対極にあるのが会衆政治です。信徒総会が
すべての上にあります。この制度では、各教会が独立して自由です。しかし、信徒
が教会の牧師長老を動かす事になります。未成熟な人々の多い集まりの場合、
多数決の決定は教会の方向性を誤らせることになります。私はやはり聖書で教えている
方法は長老政治であると確信しています。
世界のプロテスタントではやはりこの長老制度を取る教会が非常に多いと云うことです。
カトリック教会が歴史においてとってきた態度の中には、教会の世俗の王国を支配下に
置くと云う行き過ぎがありました。以上の中で、マリヤを神の母として神性化したのは
近年になってからのことですが、それ以外は宗教改革の対象となった問題点でありました。
次の質問ですが、
「礼拝で、長老教会だけの特徴はどういうものがありますか?」
やはり、聖書の説きあかしを中心とした礼拝が特徴であると言えます。賛美歌、奏楽、
主の祈り、交読文、祈祷、献金、報告、祝祷がバランスよく配置され、賛美だけに偏る
と云うことはありません。御言葉の前に砕かれ、罪赦された福音のメッセージを受けて
心から献げる賛美を通して、大いに祝福を受けています。
礼拝は説教者だけに掛かっているのではなく、会衆の心からの主を畏れて前に出る
献身によってもなりたっています。
以上非常に急いで書き流した感じになりましたが、不足な点や修正すべき点があれば
至急直して改めて掲載させて頂きたいと思っています。今後とも宜しくお願い致します。