福音書の中で、イエス様がイチジクの木を枯らす箇所があってマタイではその場 で枯れていたのにルカでは次の日に見たら枯れていたとなっていました。 別のイチジクの木なのですが?書き間違えですか?
質問有難うございました。質問中ルカとありましたが、おそらくマルコの福音書のことと 思いますので、マタイとマルコとの比較で答えたいと思います。 マタイでは、イエス様がエルサレムに帰られる途中、空腹になられて道ばたのイチジク の木に近づかれましたが、その木には実がなっていなかったので、その木に向って「お前 の実は、もういつまでも、ならないように。」と言われると、イチジクは「たちまち」 「枯れた。」ことが記されています。(マタイ21:18、19) これに対し、マルコの福音書は、その木が枯れたのは「たちまち」ではなく、その翌日 の「朝早く」であったというのです。これは何かの間違いかと思われるわけですね。
この箇所に関してはマタイとマルコを比較するとどうでしょう。マルコの方が詳しいです よね。そうです。マルコの方はマタイより詳しく記し、マタイは時間の経過を省略して記 録していると云えます。マルコによると、弟子たちは翌朝、見ると、木が「根まで」枯れ ていたと詳しい描写です。翌朝までに「根まで」枯れる速度はやはり常識からいってもか なり早いのであって、マタイの云う「たちまち」の範疇に入ると考えても、常識から大き く逸脱した表現であるとは云えないでしょう。 その他に、マタイでは葉っぱだけ「たちまち」枯れ、根は後になって枯れたことを云う こともできます。その場合、それなら何故、葉っぱが直ちに枯れたのに弟子たちは何の反 応をも示さなかったのか、それは不自然だという疑問が生じます。 これに対し、まず、反応が示されていないのはマルコ伝の方で、マタイ伝では反応が示 されていますから問題ありません。マルコ伝の方は弟子たちが13節にあるように、遠くで 見ているから枯れたのに気がつかなかったからで、その木に近づいたのはイエス様だけだ った。本当は葉っぱの方は「たちまち枯れた」んだけれど、弟子たちには見えなかったか らだ、と云う理由が成り立ちます。 それなら、誰も見えなかったのに、マタイ伝ではどうしてその場で見えたように「たち まち枯れた」と記したのは何故かと云う疑問が起ります。この説明では同じ質問が2度繰 り返され、同じイエスさまからの解答が2度も短い期間で繰り返されることになり不自然 です。従って、マタイの方も共に弟子たちには見えていなかったが、マタイは翌日の弟子 たちの質問との間の時間を省略して記録していると説明することができます。
私はこう思います。同じ事実を二人は正確に記録しています。簡略化は不正確化とは違 います。歴史的事実の簡略化した説明と詳細な説明との間には矛盾に見える場合が多々出 てきます。それを、直ぐに、記録者の間違いとして片付ける説明は安易に陥りやすい危険 性を持っています。気をつけたいと思います。素粒子物理学の現象は矛盾に満ちています。 しかし、その矛盾に見える現象を研究して統一した理論を見出そうと努力をするとき、大 きな発見につながって来た事は歴史上の衆知の事実です。 そこで、本題に戻りますが、この箇所では、マタイは簡略化しマルコは詳細を述べてい ます。主が木に向って宣言されたときから、直ちに枯れる現象は始まります。しかし、弟 子たちは何らかの理由でその現象の詳細は分りません。翌日になって木のそばを通りかか ったとき、「根まで」枯れてしまっていた事に驚きます。これによって急激な変化を確証 します。そのことから、マタイの「たちまち・・・枯れた」の表現は常識的許容範囲にあ ると確信します。